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奄美大島ゆかりの人物たち

奄美大島の歴史・文化・自然などにゆかりがある人物を紹介します

田中 一村 1908~1977年 栃木県(現)生まれ
晩年を奄美で過ごし、独特の画風で亜熱帯の自然を描いた日本画家。
本名は田中孝。中央画壇と離れて、質素に暮らしながら絵を書き続け、昭和30年の九州・四国・紀州の旅により亜熱帯の自然に魅了され、昭和33年に奄美大島へ渡る。大島紬刷り込み染色見習いとして働きながら、衣食住を切り詰め、自らの信ずる絵を書き続けた。昭和52年9月、心不全で倒れ、誰からも看取られずに69歳の生涯を終える。生前、一村の作品のほとんどは中央画壇に知られることがなかったが、没後、名瀬で個展が開かれたのをきっかけに、NHKの特集などにより注目を集めるようになった。平成13年には、奄美パーク内に『田中一村記念美術館』が建設され、平成18年には、彼の生涯を描いた映画『アダン』も公開された。


ゆかりの地・もの:
田中一村記念美術館 / 田中一村終焉の家 / 田中一村碑 / 大島紬 / 奄美市名瀬
西郷 隆盛 1828~1877年 鹿児島市(現)生まれ。
薩摩藩士。政治家。「維新の三傑」の一人。
1858年、安政の大獄を逃れ薩摩藩に戻った西郷は、日向国に向かう際、僧月照とともに錦江湾で入水を図った。しかし、西郷だけは生き残り翌年(1859年)、奄美大島へ・・・。西郷は奄美大島の龍郷町に住み、島妻「愛加那」との間に一男一女をもうけた。近在の青少年たちに勉学を教えたり、黒糖の取り立てに苦しむ島民側に立って訴えを起こしたりした。1862年島津久光から召喚され、妻子を残し鹿児島へ帰還。西郷が奄美大島で過ごした時間はわずか3年であった。1862年、寺田屋騒動に際して久光の不評を買った西郷は、徳之島・沖永良部島へ遠島。沖永良部島では、社倉制度のヒントを与え、島の生活向上に貢献した。1863年鹿児島へ帰還。


ゆかりの地・もの:
西郷南洲謫居跡 / 南洲神社 / 西郷松 / 龍郷町
直 川智 生没年不詳 大和村(現)生まれ。
中国から奄美大島にサトウキビの製法技術を持ち帰ったとされる人物。
1605年、川智は琉球に向かう際に台風にあい中国の福建省に流された。当時、中国では他国に製法技術を教えることが国禁であったが、密かにその製法を学んだ川智は、サトウキビの苗(3つ)を荷物に隠し奄美大島に持ち帰り、現磯平パークとなる地にその苗を植えた。キビの生成は順調で次々と増産し、3年後の1610年には日本で初の黒糖製法に成功した。その後、サトウキビ栽培を群島内に奨励し、技術改良に専念。また、子孫は家業として伝授を命じた。1882年に建てられた「開饒神社」は、直川智を祭神とした神社である。


ゆかりの地・もの:
キビの郷 磯平パーク / 開饒(ひらとみ)神社 / 大和村 / サトウキビ / 黒糖焼酎 
田畑 佐文仁 1676~1764年 龍郷町(現)生まれ。
「奄美開拓の父」と呼ばれる人物。
江戸時代中期の役人で、農地開墾の功績により島で最初の郷士格なり、田畑性を許された。薩摩へ留学した際に建築公法を学んだ佐文仁は、当時の優れた記述や計量法も用いて、全島で約500haの新田を開拓した。龍郷町役場前の国道58号線沿いにある「たぶくろの碑」付近一帯は230haにも及ぶ浦の開拓地だ。大和村のフォレストポリス内には「田畑佐文仁隧道跡」や「田畑佐文仁開田跡(福元用水路)」が現在も残っている。他にも奄美市名瀬の知名瀬、朝仁や奄美市住用町の見里、大和村の思勝などにも開拓跡が知られている。


ゆかりの地・もの:
田畑佐文仁隧道跡・田畑佐文仁開田跡(福元用水路)  / たぶくろの碑 / 浦の橋立て / 龍郷町 / 大和村 
柏 有度 1776~1833年 奄美市名瀬知名瀬(現)生まれ。
島役人「黍横目」。『三転子三鍋法(=鉄製の搾車が3つと糖汁を煮詰める鍋が3つある黍圧搾機)』の発明家。
1808年、33歳のとき『三転子三鍋法』を発明。1833年、名瀬出張のため板付き舟に乗り1人で航海中、天候悪化のため帰らぬ人となった。死後50年以上後に彼の業績はようやく認めれ、1887年、当時の農商務大臣「黒田清隆」から追賞授与として「一金二十円」が親族に贈られた。


ゆかりの地・もの:
柏有度の墓/ 奄美市名瀬
丸田 南里 1851~1887年 奄美市名瀬(現)生まれ。
『黒糖自由販売運動』の中心人物。
14歳の頃、イギリス商人グラバーに誘われイギリスに密航。10年間ヨーロッパに滞在し、1875年奄美大島に帰島。南里は近世封建制の黒糖専売制度とほぼ同じしくみの大島商社による一手売買を見て、『「大島商社」が1873年の「黒糖売買自由化」に違反する』と指摘。鹿児島県(旧薩摩藩)は、隠蔽して島民たちに「黒糖売買自由化」を知らせずに専売を続けていたのだ。その後、南里は有志たちに呼びかけ「黒糖自由販売運動」を全島に広めた(「勝手世騒動」)。1877年、55人の陳情団が鹿児島県に渡り訴えを起こす。しかし、県は彼らを拿捕した上、35人を南西の役に従軍させた。その頃、奄美で運動を行っていた南里は投獄される。1878年、大島商社が解体される。1887年、南里死去。享年36歳。


ゆかりの地・もの:
丸田南里の墓/ 奄美市名瀬
昇 曙夢 1878~1958年 瀬戸内町加計呂麻島生まれ。
日本初のロシア文学者。


ゆかりの地・もの:
加計呂麻島
朝 虎松 1878~1958年 瀬戸内町加計呂麻島生まれ。


ゆかりの地・もの:
 加計呂麻島 / 朝虎松の碑 /西古見
島尾 敏雄 1917~1986年 神奈川県生まれ。
「ヤポネシア」という概念を提唱した作家
1943年9月、海軍予備学生を志願し、特攻艇・震洋の部隊長として加計呂麻島に駐留。1945年8月13日に出撃命令を受けたが待機のまま終戦を迎えた。後にその体験は『出発は遂に訪れず」として発表される。終戦の翌年、特攻隊基地の側の学校に勤務していた太平ミホと結婚し、神戸で文学活動を開始する。1948年、「単独旅行者」で文壇デビューを果たす。1955年、妻の病気療養のため、家族で奄美大島名瀬市に移住。1958年、県立図書館奄美分館(現:県立奄美図書館)が設置され、初代分館長に就任。1958年、『ヤポネシア(=日本列島を「島々の連なり」として捉える視点)』という概念を提唱。


ゆかりの地・もの:
島尾敏雄文学碑公園 / 鹿児島県立奄美図書館 / 加計呂麻島 / 奄美市名瀬 
泉 芳朗 1905~1959年 徳之島(現)生まれ。
奄美群島の本土復帰運動の指導者。「祖国復帰の父」
昭和2年、処女詩集『光は漏れている』を出版。翌年(昭和3年)上京し、教職のかたわら詩作活動を行い、高村光太郎など中央の詩人と交流を広げた。昭和14年、胸を痛め帰郷。国民学校教頭、同校長などを歴任。戦後、奄美文芸家協会を結成。昭和24年、雑誌『自由』で民族自決を謳い、社会運動家として復帰運動に勢力を傾けた。昭和26年、奄美大島日本復帰協議会が発足すると議長に就任。復帰運動を広くアピールするため、高千穂神社にて断食を行い、軍政下で名瀬市長を務めた。昭和28年12月25日、奄美大島本土復帰を勝ち取る。復帰後は、衆議院選に出馬するが落選、国政の場への進出はできなかった。昭和34年4月、詩集発行のための上京中に急死。


ゆかりの地・もの:
おがみ山公園 / 名瀬小学校 / 泉芳朗居住跡地 / 高千穂神社 / 奄美市名瀬

引用・参照: 奄美ガイドブック 私たちの奄美大島、奄美パーク田中一村美術館HP(外部サイト)大和村HP(外部サイト)